着いた時は、ようやく娑婆《しゃば》へ出たような気がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。
 清《きよ》の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄《かばん》を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙《なみだ》をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉《うれ》しかったから、もう田舎《いなか》へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
 その後ある人の周旋《しゅうせん》で街鉄《がいてつ》の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関《げんかん》付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月|肺炎《はいえん》に罹《かか》って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋《う》めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向《こびなた》の養源寺にある。
[#地から1字上げ](明治三十九年四月)



底本:「ちくま日本文学全集 夏目漱石」筑摩書房
   1992(平成4)年1月20日第1刷発行
底本の親本:「夏目漱石全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年10月27日第1刷発行
※底本の注にれば、本作品の原稿には、「そのうち学校もいやになった。」の後に、漱石自身による2字あけの指定があるという。このファイルでは、その情報にもとづいて、当該の箇所を2字あけとした。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:真先芳秋
校正:柳沢成雄
1999年9月13日公開
2004年2月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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