うと、見えがくれについて来た。町を外《はず》れると急に馳《か》け足《あし》の姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。何が来たかと驚ろいて振《ふ》り向く奴を待てと云って肩に手をかけた。野だは狼狽《ろうばい》の気味で逃げ出そうという景色《けしき》だったから、おれが前へ廻って行手を塞《ふさ》いでしまった。
「教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行って泊《とま》った」と山嵐はすぐ詰《なじ》りかけた。
「教頭は角屋へ泊って悪《わ》るいという規則がありますか」と赤シャツは依然《いぜん》として鄭寧《ていねい》な言葉を使ってる。顔の色は少々蒼い。
「取締上《とりしまりじょう》不都合だから、蕎麦屋《そばや》や団子屋《だんごや》へさえはいってはいかんと、云うくらい謹直《きんちょく》な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ」野だは隙を見ては逃げ出そうとするからおれはすぐ前に立ち塞がって「べらんめえの坊っちゃんた何だ」と怒鳴り付けたら、「いえ君の事を云ったんじゃないんです、全くないんです」と鉄面皮に言訳がましい事をぬかした。おれはこの時気がついてみたら、両手で自分の袂を握《にぎ》ってる。追っかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと云いながら、野だの面へ擲《たた》きつけた。玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。野だはよっぽど仰天《ぎょうてん》した者と見えて、わっと言いながら、尻持《しりもち》をついて、助けてくれと云った。おれは食うために玉子は買ったが、打《ぶ》つけるために袂へ入れてる訳ではない。ただ肝癪《かんしゃく》のあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまったのだ。しかし野だが尻持を突いたところを見て始めて、おれの成功した事に気がついたから、こん畜生《ちくしょう》、こん畜生と云いながら残る六つを無茶苦茶に擲《たた》きつけたら、野だは顔中黄色になった。
おれが玉子をたたきつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。
「芸者をつれて僕が宿屋へ泊ったと云う証拠《しょうこ》がありますか」
「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。胡魔化せるものか」
「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知った
前へ
次へ
全105ページ中103ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング