ちゃんだから愛嬌《あいきょう》がありますよ」「増給がいやだの辞表を出したいのって、ありゃどうしても神経に異状があるに相違ない」おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思う様|打《ぶ》ちのめしてやろうと思ったが、やっとの事で辛防《しんぼう》した。二人はハハハハと笑いながら、瓦斯燈の下を潜《くぐ》って、角屋の中へはいった。
「おい」
「おい」
「来たぜ」
「とうとう来た」
「これでようやく安心した」
「野だの畜生、おれの事を勇み肌の坊っちゃんだと抜《ぬ》かしやがった」
「邪魔物と云うのは、おれの事だぜ。失敬千万な」
おれと山嵐は二人の帰路を要撃《ようげき》しなければならない。しかし二人はいつ出てくるか見当がつかない。山嵐は下へ行って今夜ことによると夜中に用事があって出るかも知れないから、出られるようにしておいてくれと頼《たの》んで来た。今思うと、よく宿のものが承知したものだ。大抵《たいてい》なら泥棒《どろぼう》と間違えられるところだ。
赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるのはなおつらい。寝る訳には行かないし、始終障子の隙《すき》から睨めているのもつらいし、どうも、こうも心が落ちつかなくって、これほど難儀《なんぎ》な思いをした事はいまだにない。いっその事角屋へ踏み込んで現場を取って抑《おさ》えようと発議《ほつぎ》したが、山嵐は一言にして、おれの申し出を斥《しりぞ》けた。自分共が今時分飛び込んだって、乱暴者だと云って途中《とちゅう》で遮《さえぎ》られる。訳を話して面会を求めれば居ないと逃《に》げるか別室へ案内をする。不用意のところへ踏み込めると仮定したところで何十とある座敷のどこに居るか分るものではない、退屈でも出るのを待つより外に策はないと云うから、ようやくの事でとうとう朝の五時まで我慢《がまん》した。
角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとを尾《つ》けた。一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。温泉《ゆ》の町をはずれると一丁ばかりの杉並木《すぎなみき》があって左右は田圃《たんぼ》になる。それを通りこすとここかしこに藁葺《わらぶき》があって、畠《はたけ》の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。町さえはずれれば、どこで追いついても構わないが、なるべくなら、人家のない、杉並木で捕《つら》まえてやろ
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