。もう九時だろう」
「今九時十二分ばかりだ」と帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら云ったが「おい洋燈《らんぷ》を消せ、障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。狐《きつね》はすぐ疑ぐるから」
 おれは一貫張《いっかんばり》の机の上にあった置き洋燈《らんぷ》をふっと吹きけした。星明りで障子だけは少々あかるい。月はまだ出ていない。おれと山嵐は一生懸命《いっしょうけんめい》に障子へ面《かお》をつけて、息を凝《こ》らしている。チーンと九時半の柱時計が鳴った。
「おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもう厭《いや》だぜ」
「おれは銭のつづく限りやるんだ」
「銭っていくらあるんだい」
「今日までで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても都合《つごう》のいいように毎晩|勘定《かんじょう》するんだ」
「それは手廻しがいい。宿屋で驚いてるだろう」
「宿屋はいいが、気が放せないから困る」
「その代り昼寝《ひるね》をするだろう」
「昼寝はするが、外出が出来ないんで窮屈《きゅうくつ》でたまらない」
「天誅も骨が折れるな。これで天網恢々疎《てんもうかいかいそ》にして洩《も》らしちまったり、何かしちゃ、つまらないぜ」
「なに今夜はきっとくるよ。――おい見ろ見ろ」と小声になったから、おれは思わずどきりとした。黒い帽子《ぼうし》を戴《いただ》いた男が、角屋の瓦斯燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。違っている。おやおやと思った。そのうち帳場の時計が遠慮《えんりょ》なく十時を打った。今夜もとうとう駄目らしい。
 世間は大分静かになった。遊廓《ゆうかく》で鳴らす太鼓《たいこ》が手に取るように聞《きこ》える。月が温泉《ゆ》の山の後《うしろ》からのっと顔を出した。往来はあかるい。すると、下《しも》の方から人声が聞えだした。窓から首を出す訳には行かないから、姿を突《つ》き留める事は出来ないが、だんだん近づいて来る模様だ。からんからんと駒下駄《こまげた》を引き擦《ず》る音がする。眼を斜《なな》めにするとやっと二人の影法師《かげぼうし》が見えるくらいに近づいた。
「もう大丈夫《だいじょうぶ》ですね。邪魔《じゃま》ものは追っ払ったから」正《まさ》しく野だの声である。「強がるばかりで策がないから、仕様がない」これは赤シャツだ。「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえと来たら、勇み肌《はだ》の坊《ぼ》っ
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