思ったら、後ろからも、背中を棒《ぼう》でどやした奴がある。教師の癖《くせ》に出ている、打《ぶ》て打てと云う声がする。教師は二人だ。大きい奴と、小さい奴だ。石を抛《な》げろ。と云う声もする。おれは、なに生意気な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、傍《そば》に居た師範生の頭を張りつけてやった。石がまたひゅうと来る。今度はおれの五|分刈《ぶがり》の頭を掠《かす》めて後ろの方へ飛んで行った。山嵐はどうなったか見えない。こうなっちゃ仕方がない。始めは喧嘩をとめにはいったんだが、どやされたり、石をなげられたりして、恐《おそ》れ入って引き下がるうんでれがんがあるものか。おれを誰だと思うんだ。身長《なり》は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ逃げろと云う声がした。今まで葛練《くずね》りの中で泳いでるように身動きも出来なかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引上げてしまった。田舎者でも退却《たいきゃく》は巧妙だ。クロパトキンより旨いくらいである。
 山嵐はどうしたかと見ると、紋付《もんつき》の一重羽織《ひとえばおり》をずたずたにして、向うの方で鼻を拭《ふ》いている。鼻柱をなぐられて大分出血したんだそうだ。鼻がふくれ上がって真赤《まっか》になってすこぶる見苦しい。おれは飛白《かすり》の袷《あわせ》を着ていたから泥《どろ》だらけになったけれども、山嵐の羽織ほどな損害はない。しかし頬《ほっ》ぺたがぴりぴりしてたまらない。山嵐は大分血が出ているぜと教えてくれた。
 巡査は十五六名来たのだが、生徒は反対の方面から退却したので、捕《つら》まったのは、おれと山嵐だけである。おれらは姓名《せいめい》を告げて、一部始終を話したら、ともかくも警察まで来いと云うから、警察へ行って、署長の前で事の顛末《てんまつ》を述べて下宿へ帰った。

     十一

 あくる日|眼《め》が覚めてみると、身体中《からだじゅう》痛くてたまらない。久しく喧嘩《けんか》をしつけなかったから、こんなに答えるんだろう。これじゃあんまり自慢《じまん》もできないと床《とこ》の中で考えていると、婆《ばあ》さんが四国新聞を持ってきて枕元《まくらもと》へ置いてくれた。実は新聞を見るのも退儀《たいぎ》なんだが、男がこれしきの事に閉口《へ
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