来た赤シャツの弟が、先生また喧嘩です、中学の方で、今朝《けさ》の意趣返《いしゅがえ》しをするんで、また師範《しはん》の奴と決戦を始めたところです、早く来て下さいと云いながらまた人の波のなかへ潜《もぐ》り込《こ》んでどっかへ行ってしまった。
 山嵐は世話の焼ける小僧だまた始めたのか、いい加減にすればいいのにと逃げる人を避《よ》けながら一散に馳《か》け出した。見ている訳にも行かないから取り鎮《しず》めるつもりだろう。おれは無論の事逃げる気はない。山嵐の踵《かかと》を踏んであとからすぐ現場へ馳けつけた。喧嘩は今が真最中《まっさいちゅう》である。師範の方は五六十人もあろうか、中学はたしかに三割方多い。師範は制服をつけているが、中学は式後|大抵《たいてい》は日本服に着換《きが》えているから、敵味方はすぐわかる。しかし入り乱れて組んづ、解《ほご》れつ戦ってるから、どこから、どう手を付けて引き分けていいか分らない。山嵐は困ったなと云う風で、しばらくこの乱雑な有様を眺めていたが、こうなっちゃ仕方がない。巡査《じゅんさ》がくると面倒だ。飛び込んで分けようと、おれの方を見て云うから、おれは返事もしないで、いきなり、一番喧嘩の烈《はげ》しそうな所へ躍《おど》り込《こ》んだ。止《よ》せ止せ。そんな乱暴をすると学校の体面に関わる。よさないかと、出るだけの声を出して敵と味方の分界線らしい所を突《つ》き貫《ぬ》けようとしたが、なかなかそう旨《うま》くは行かない。一二間はいったら、出る事も引く事も出来なくなった。目の前に比較的《ひかくてき》大きな師範生が、十五六の中学生と組み合っている。止せと云ったら、止さないかと師範生の肩《かた》を持って、無理に引き分けようとする途端《とたん》にだれか知らないが、下からおれの足をすくった。おれは不意を打たれて握《にぎ》った、肩を放して、横に倒《たお》れた。堅《かた》い靴《くつ》でおれの背中の上へ乗った奴がある。両手と膝を突いて下から、跳《は》ね起きたら、乗った奴は右の方へころがり落ちた。起き上がって見ると、三間ばかり向うに山嵐の大きな身体が生徒の間に挟《はさ》まりながら、止せ止せ、喧嘩は止せ止せと揉み返されてるのが見えた。おい到底駄目だと云ってみたが聞えないのか返事もしない。
 ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなりおれの頬骨《ほおぼね》へ中《あた》ったなと
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