のはないかしらん、と考えてみると、そんな注文通りの事件は一つもなさそうだ。おれは墨《すみ》を磨《す》って、筆をしめして、巻紙を睨《にら》めて、――巻紙を睨めて、筆をしめして、墨を磨って――同じ所作を同じように何返も繰《く》り返したあと、おれには、とても手紙は書けるものではないと、諦《あきら》めて硯《すずり》の蓋《ふた》をしてしまった。手紙なんぞをかくのは面倒臭い。やっぱり東京まで出掛けて行って、逢《あ》って話をするのが簡便だ。清の心配は察しないでもないが、清の注文通りの手紙を書くのは三七日の断食《だんじき》よりも苦しい。
おれは筆と巻紙を抛《ほう》り出して、ごろりと転がって肱枕《ひじまくら》をして庭《にわ》の方を眺《なが》めてみたが、やっぱり清の事が気にかかる。その時おれはこう思った。こうして遠くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心《まこと》は清に通じるに違いない。通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事で暮《くら》してると思ってるだろう。たよりは死んだ時か病気の時か、何か事の起った時にやりさえすればいい訳だ。
庭は十坪《とつぼ》ほどの平庭で、これという植木もない。ただ一本の蜜柑《みかん》があって、塀《へい》のそとから、目標《めじるし》になるほど高い。おれはうちへ帰ると、いつでもこの蜜柑を眺める。東京を出た事のないものには蜜柑の生《な》っているところはすこぶる珍《めずら》しいものだ。あの青い実がだんだん熟してきて、黄色になるんだろうが、定めて奇麗《きれい》だろう。今でももう半分色の変ったのがある。婆《ばあ》さんに聞いてみると、すこぶる水気の多い、旨《うま》い蜜柑だそうだ。今に熟《うれ》たら、たんと召《め》し上がれと云ったから、毎日少しずつ食ってやろう。もう三週間もしたら、充分《じゅうぶん》食えるだろう。まさか三週間以内にここを去る事もなかろう。
おれが蜜柑の事を考えているところへ、偶然山嵐《ぐうぜんやまあらし》が話しにやって来た。今日は祝勝会だから、君といっしょにご馳走《ちそう》を食おうと思って牛肉を買って来たと、竹の皮の包《つつみ》を袂《たもと》から引きずり出して、座敷《ざしき》の真中《まんなか》へ抛り出した。おれは下宿で芋責《いもぜめ》豆腐責になってる上、蕎麦《そば》屋行き、団子《だんご》屋行きを禁じられてる際だから
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