、そいつは結構だと、すぐ婆さんから鍋《なべ》と砂糖をかり込んで、煮方《にかた》に取りかかった。
山嵐は無暗《むやみ》に牛肉を頬張《ほおば》りながら、君あの赤シャツが芸者に馴染《なじみ》のある事を知ってるかと聞くから、知ってるとも、この間うらなりの送別会の時に来た一人がそうだろうと云ったら、そうだ僕《ぼく》はこの頃《ごろ》ようやく勘づいたのに、君はなかなか敏捷《びんしょう》だと大いにほめた。
「あいつは、ふた言目には品性だの、精神的|娯楽《ごらく》だのと云う癖《くせ》に、裏へ廻《まわ》って、芸者と関係なんかつけとる、怪《け》しからん奴《やつ》だ。それもほかの人が遊ぶのを寛容《かんよう》するならいいが、君が蕎麦屋へ行ったり、団子屋へはいるのさえ取締上《とりしまりじょう》害になると云って、校長の口を通して注意を加えたじゃないか」
「うん、あの野郎の考えじゃ芸者買は精神的娯楽で、天麩羅や、団子は物理的娯楽なんだろう。精神的娯楽なら、もっと大べらにやるがいい。何だあの様《ざま》は。馴染の芸者がはいってくると、入れ代りに席をはずして、逃げるなんて、どこまでも人を胡魔化《ごまか》す気だから気に食わない。そうして人が攻撃《こうげき》すると、僕は知らないとか、露西亜《ロシア》文学だとか、俳句が新体詩の兄弟分だとか云って、人を烟《けむ》に捲《ま》くつもりなんだ。あんな弱虫は男じゃないよ。全く御殿女中《ごてんじょちゅう》の生れ変りか何かだぜ。ことによると、あいつのおやじは湯島のかげま[#「かげま」に傍点]かもしれない」
「湯島のかげま[#「かげま」に傍点]た何だ」
「何でも男らしくないもんだろう。――君そこのところはまだ煮えていないぜ。そんなのを食うと絛虫《さなだむし》が湧《わ》くぜ」
「そうか、大抵大丈夫《たいていだいじょうぶ》だろう。それで赤シャツは人に隠《かく》れて、温泉《ゆ》の町の角屋《かどや》へ行って、芸者と会見するそうだ」
「角屋って、あの宿屋か」
「宿屋兼料理屋さ。だからあいつを一番へこますためには、あいつが芸者をつれて、あすこへはいり込むところを見届けておいて面詰《めんきつ》するんだね」
「見届けるって、夜番《よばん》でもするのかい」
「うん、角屋の前に枡屋《ますや》という宿屋があるだろう。あの表二階をかりて、障子《しょうじ》へ穴をあけて、見ているのさ」
「見ているとき
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