、もう五つ六つ年を取ったような気がする。早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を渡《わた》って野芹川《のぜりがわ》の堤《どて》へ出た。川と云うとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁ほど下ると相生村《あいおいむら》へ出る。村には観音様《かんのんさま》がある。
 温泉《ゆ》の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。太鼓《たいこ》が鳴るのは遊廓に相違ない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに人影《ひとかげ》が見え出した。月に透《す》かしてみると影は二つある。温泉《ゆ》へ来て村へ帰る若い衆《しゅ》かも知れない。それにしては唄《うた》もうたわない。存外静かだ。
 だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離《きょり》に逼った時、男がたちまち振り向いた。月は後《うしろ》からさしている。その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。男と女はまた元の通りにあるき出した。おれは考えがあるから、急に全速力で追っ懸《か》けた。先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。今は話し声も手に取るように聞える。土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。おれは苦もなく後ろから追い付いて、男の袖《そで》を擦《す》り抜《ぬ》けざま、二足前へ出した踵《くびす》をぐるりと返して男の顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。月は正面からおれの五分|刈《がり》の頭から顋の辺《あた》りまで、会釈《えしゃく》もなく照《てら》す。男はあっと小声に云ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を促《うな》がすが早いか、温泉《ゆ》の町の方へ引き返した。
 赤シャツは図太くて胡魔化すつもりか、気が弱くて名乗り損《そく》なったのかしら。ところが狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。

     八

 赤シャツに勧められて釣《つり》に行った帰りから、山嵐《やまあらし》を疑ぐり出した。無い事を種に下宿を出ろと云われた時は、いよいよ不埒《ふらち》な奴《やつ》だと思った。ところが会議の席では案に相違《そうい》して滔々《とうとう》と生徒|厳罰論
前へ 次へ
全105ページ中65ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング