段不思議にも思わなかった。風呂を出てみるといい月だ。町内の両側に柳《やなぎ》が植《うわ》って、柳の枝《えだ》が丸《ま》るい影を往来の中へ落《おと》している。少し散歩でもしよう。北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が妓楼《ぎろう》である。山門のなかに遊廓《ゆうかく》があるなんて、前代未聞の現象だ。ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。門の並びに黒い暖簾《のれん》をかけた、小さな格子窓《こうしまど》の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。丸提灯《まるぢょうちん》に汁粉《しるこ》、お雑煮《ぞうに》とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端《のきば》に近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
食いたい団子の食えないのは情ない。しかし自分の許嫁《いいなずけ》が他人に心を移したのは、なお情ないだろう。うらなり君の事を思うと、団子は愚《おろ》か、三日ぐらい断食《だんじき》しても不平はこぼせない訳だ。本当に人間ほどあてにならないものはない。あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情な事をしそうには思えないんだが――うつくしい人が不人情で、冬瓜《とうがん》の水膨《みずぶく》れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断が出来ない。淡泊《たんぱく》だと思った山嵐は生徒を煽動《せんどう》したと云うし。生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長に逼《せま》るし。厭味《いやみ》で練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれに余所《よそ》ながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを胡魔化《ごまか》したり、胡魔化したのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云うし。いか銀が難癖《なんくせ》をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公が入《い》れ替《かわ》ったり――どう考えてもあてにならない。こんな事を清にかいてやったら定めて驚く事だろう。箱根《はこね》の向うだから化物《ばけもの》が寄り合ってるんだと云うかも知れない。
おれは、性来《しょうらい》構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで来たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを物騒《ぶっそう》に思い出した。別段際だった大事件にも出逢わないのに
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