自分の金側《きんがわ》を出して、二分ほどちがってると云いながら、おれの傍《そば》へ腰を卸《おろ》した。女の方はちっとも見返らないで杖《つえ》の上に顋《あご》をのせて、正面ばかり眺《なが》めている。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに違いない。
 やがて、ピューと汽笛《きてき》が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾《わ》れ勝《がち》に乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったって威張れるどころではない、住田《すみた》まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発《ふんぱつ》して白切符を握《にぎ》ってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵《たいてい》は下等へ乗る。赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。うらなり君は活版で押《お》したように下等ばかりへ乗る男だ。先生、下等の車室の入口へ立って、何だか躊躇《ちゅうちょ》の体《てい》であったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。おれはこの時何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。
 温泉へ着いて、三階から、浴衣《ゆかた》のなりで湯壺《ゆつぼ》へ下りてみたら、またうらなり君に逢った。おれは会議や何かでいざと極まると、咽喉《のど》が塞《ふさ》がって饒舌《しゃべ》れない男だが、平常《ふだん》は随分《ずいぶん》弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。何だか憐れぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心を慰《なぐさ》めてやるのは、江戸《えど》っ子の義務だと思ってる。ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。何を云っても、え[#「え」に傍点]とかいえ[#「いえ」に傍点]とかぎりで、しかもそのえ[#「え」に傍点]といえ[#「いえ」に傍点]が大分|面倒《めんどう》らしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご免蒙《めんこうむ》った。
 湯の中では赤シャツに逢わなかった。もっとも風呂《ふろ》の数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。別
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