ス寄ったって、これほど立派な旦那様《だんなさま》が出来るもんか。
「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。大分たいぎそうに見えますが……」「いえ、別段これという持病もないですが……」
「そりゃ結構です。からだが悪いと人間も駄目ですね」
「あなたは大分ご丈夫《じょうぶ》のようですな」
「ええ瘠《や》せても病気はしません。病気なんてものあ大嫌いですから」
うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
ところへ入口で若々しい女の笑声が聞《きこ》えたから、何心なく振《ふ》り返ってみるとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並《なら》んで切符《きっぷ》を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶《すいしょう》の珠《たま》を香水《こうすい》で暖《あっ》ためて、掌《てのひら》へ握《にぎ》ってみたような心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端《とたん》に、うらなり君の事は全然《すっかり》忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、うらなり君が突然《とつぜん》おれの隣《となり》から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を云ってるのか分らない。
停車場の時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へ馳《か》け込《こ》んで来たものがある。見れば赤シャツだ。何だかべらべら然たる着物へ縮緬《ちりめん》の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖《きんぐさ》りをぶらつかしている。あの金鎖りは贋物《にせもの》である。赤シャツは誰《だれ》も知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符|売下所《うりさげじょ》の前に話している三人へ慇懃《いんぎん》にお辞儀《じぎ》をして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足《ねこあし》にあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、
前へ
次へ
全105ページ中62ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング