「天下の多数は俗人である。わが位に着《ちゃく》するがためにこの大道徳を解し得ぬ。わが富に着するがためにこの大道徳を解し得ぬ。下《くだ》れるものは、わが酒とわが女に着するがためにこの大道徳を解し得ぬ。
「光明は趣味の先駆である。趣味は社会の油である。油なき社会は成立せぬ。汚《けが》れたる油に廻転する社会は堕落《だらく》する。かの紳士、通人、芸妓の徒《と》は、汚れたる油の上を滑《すべ》って墓に入るものである。華族と云い貴顕《きけん》と云い豪商と云うものは門閥《もんばつ》の油、権勢《けんせい》の油、黄白《こうはく》の油をもって一世を逆《さか》しまに廻転せんと欲するものである。
「真正《しんせい》の油は彼らの知るところではない。彼らは生れてより以来この油について何らの工夫《くふう》も費やしておらん。何らの工夫を費やさぬものが、この大道徳を解せぬのは許す。光明の学徒を圧迫せんとするに至っては、俗人の域を超越して罪人の群《むれ》に入る。
「三味線《しゃみせん》を習うにも五六年はかかる。巧拙《こうせつ》を聴き分くるさえ一カ月の修業では出来ぬ。趣味の修養が三味《しゃみ》の稽古《けいこ》より易《やす
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