》いと思うのは間違っている。茶の湯を学ぶ彼らはいらざる儀式に貴重な時間を費やして、一々に師匠の云う通りになる。趣味は茶の湯より六《む》ずかしいものじゃ。茶坊主に頭を下げる謙徳《けんとく》があるならば、趣味の本家《ほんけ》たる学者の考はなおさら傾聴せねばならぬ。
「趣味は人間に大切なものである。楽器を壊《こぼ》つものは社会から音楽を奪う点において罪人である。書物を焼くものは社会から学問を奪う点において罪人である。趣味を崩《くず》すものは社会そのものを覆《くつが》えす点において刑法の罪人よりもはなはだしき罪人である。音楽はなくとも吾人は生きている、学問がなくても吾人はいきている。趣味がなくても生きておられるかも知れぬ。しかし趣味は生活の全体に渉《わた》る社会の根本要素である。これなくして生きんとするは野に入って虎と共に生きんとすると一般である。
「ここに一人《いちにん》がある。この一人が単に自己の思うようにならぬと云う源因のもとに、多勢《たぜい》が朝に晩に、この一人を突つき廻わして、幾年の後《のち》この一人の人格を堕落せしめて、下劣なる趣味に誘い去りたる時、彼らは殺人より重い罪を犯したので
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