云う約束か」
「うんまあ、そうさ。じゃ失敬」と中野君は向《むこう》へ歩き出す。高柳君は往来の真中へたった一人残された。
淋しい世の中を池《いけ》の端《はた》へ下《くだ》る。その時一人坊っちの周作はこう思った。「恋をする時間があれば、この自分の苦痛をかいて、一篇の創作を天下に伝える事が出来るだろうに」
見上げたら西洋軒の二階に奇麗《きれい》な花瓦斯《はなガス》がついていた。
五
ミルクホールに這入《はい》る。上下《うえした》を擦《す》り硝子《ガラス》にして中一枚を透《す》き通《とお》しにした腰障子《こししょうじ》に近く据《す》えた一脚の椅子《いす》に腰をおろす。焼麺麭《やきパン》を噛《かじ》って、牛乳を飲む。懐中には二十円五十銭ある。ただ今地理学教授法の原稿を四十一頁渡して金に換《か》えて来たばかりである。一頁五十銭の割合になる。一頁五十銭を超《こ》ゆべからず、一ヵ月五十頁を超ゆべからずと申し渡されてある。
これで今月はどうか、こうか食える。ほかからくれる十円近くの金は故里《ふるさと》の母に送らなければならない。故里《ふるさと》はもう落鮎《おちあゆ》の時節であ
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