柳君はうつらうつらと聴いている。ぱちぱちと手が鳴ると熱病の人が夢から醒《さ》めたように我に帰る。この過程を二三度繰り返して、最後の幻覚から喚《よ》び醒まされた時は、タンホイゼルのマーチで銅鑼《どら》を敲《たた》き大喇叭《おおらっぱ》を吹くところであった。
やがて、千余人の影は一度に動き出した。二人の青年は揉《も》まれながらに門を出た。
日はようやく暮れかかる。図書館の横手に聳《そび》える松の林が緑りの色を微《かす》かに残して、しだいに黒い影に変って行く。
「寒くなったね」
高柳君の答は力の抜けた咳《せき》二つであった。
「君さっきから、咳をするね。妙な咳だぜ。医者にでも見て貰ったら、どうだい」
「何、大丈夫だ」と云いながら高柳君は尖《とが》った肩を二三度ゆすぶった。松林を横切って、博物館の前に出る。大きな銀杏《いちょう》に墨汁《ぼくじゅう》を点《てん》じたような滴々《てきてき》の烏《からす》が乱れている。暮れて行く空に輝くは無数の落葉である。今は風さえ出た。
「君|二三日前《にさんちまえ》に白井道也《しらいどうや》と云う人が来たぜ」
「道也先生?」
「だろうと思うのさ。余り沢山あ
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