うなかれと命ぜられたる時は富なき昔《むか》しの心安きに帰る能《あた》わずして、命《めい》を下せる人を逆《さか》しまに詛《のろ》わんとす。われは呪《のろ》い死にに死なねばならぬか。――たちまち咽喉《のど》が塞《ふさ》がって、ごほんごほんと咳《せ》き入《い》る。袂《たもと》からハンケチを出して痰《たん》を取る。買った時の白いのが、妙な茶色に変っている。顔を挙《あ》げると、肩から観世《かんぜ》よりのように細い金鎖《きんぐさ》りを懸《か》けて、朱に黄を交《まじ》えた厚板の帯の間に時計を隠した女が、列のはずれに立って、中野君に挨拶《あいさつ》している。
「よう、いらっしゃいました」と可愛らしい二重瞼《ふたえまぶた》を細めに云う。
「いや、だいぶ盛会ですね。冬田さんは非常な出来でしたな」と中野君は半身を、女の方へ向けながら云う。
「ええ、大喜びで……」と云い捨てて下りて行く。
「あの女を知ってるかい」
「知るものかね」と高柳君は拳突《けんつく》を喰わす。
相手は驚ろいて黙ってしまった。途端《とたん》に休憩後の演奏は始まる。「四葉《よつば》の苜蓿花《うまごやし》」とか云うものである。曲の続く間は高
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