いる。三、アダジョ……パァージャル作とある。これも知らぬ。四、と読みかけた時|拍手《はくしゅ》の音が急に梁《はり》を動かして起った。演奏者はすでに台上に現われている。
やがて三部合奏曲は始まった。満場は化石したかのごとく静かである。右手の窓の外に、高い樅《もみ》の木が半分見えて後ろは遐《はる》かの空の国に入る。左手の碧《みど》りの窓掛けを洩《も》れて、澄み切った秋の日が斜《なな》めに白い壁を明らかに照らす。
曲は静かなる自然と、静かなる人間のうちに、快よく進行する。中野は絢爛《けんらん》たる空気の振動を鼓膜《こまく》に聞いた。声にも色があると嬉《うれ》しく感じている。高柳は樅の枝を離るる鳶《とび》の舞う様《さま》を眺めている。鳶が音楽に調子を合せて飛んでいる妙だなと思った。
拍手がまた盛《さかん》に起る。高柳君ははっと気がついた。自分はやはり異種類の動物のなかに一人坊《ひとりぼ》っちでおったのである。隣りを見ると中野君は一生懸命に敲《たた》いている。高い高い鳶の空から、己《おの》れをこの窮屈《きゅうくつ》な谷底に呼び返したものの一人は、われを無理矢理にここへ連れ込んだ友達である。
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