い。片手を椅子の背に凭《も》たせて、立ちながら後ろから、左右へかけて眺めている。多くの人の視線は彼の上に落ちた。中野君は平気である。高柳君はこの平気をまた羨《うらや》ましく感じた。
 しばらくすると、中野君は千以上陳列せられたる顔のなかで、ようやくあるものを物色し得たごとく、豊かなる双頬《そうきょう》に愛嬌《あいきょう》の渦《うず》を浮かして、軽《かろ》く何人《なんびと》にか会釈《えしゃく》した。高柳君は振り向かざるを得ない。友の挨拶《あいさつ》はどの辺《へん》に落ちたのだろうと、こそばゆくも首を捩《ね》じ向けて、斜《なな》めに三段ばかり上を見ると、たちまち目つかった。黒い髪のただ中に黄の勝った大きなリボンの蝶《ちょう》を颯《さっ》とひらめかして、細くうねる頸筋《くびすじ》を今真直に立て直す女の姿が目つかった。紅《くれな》いは眼の縁《ふち》を薄く染めて、潤《うるお》った眼睫《まつげ》の奥から、人の世を夢の底に吸い込むような光りを中野君の方に注いでいる。高柳君はすわやと思った。
 わが穿《は》く袴《はかま》は小倉《こくら》である。羽織は染めが剥《は》げて、濁った色の上に垢《あか》が容赦《
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