椅子に腰をおろしながら中野君は満場を見廻わす。やがて相手の服装に気がついた時、急に小声になって、
「おい、帽子をとらなくっちゃ、いけないよ」と云う。
高柳君は卒然として帽子を取って、左右をちょっと見た。三四人の眼が自分の頭の上に注《そそ》がれていたのを発見した時、やっぱり包囲攻撃だなと思った。なるほど帽子を被《かぶ》っていたものはこの広い演奏場に自分一人である。
「外套《がいとう》は着ていてもいいのか」と中野君に聞いて見る。
「外套は構わないんだ。しかしあつ過ぎるから脱ごうか」と中野君はちょっと立ち上がって、外套の襟《えり》を三寸ばかり颯《さ》と返したら、左の袖《そで》がするりと抜けた、右の袖を抜くとき、領《えり》のあたりをつまんだと思ったら、裏を表《おも》てに、外套ははや畳まれて、椅子《いす》の背中《せなか》を早くも隠した。下は仕立《した》ておろしのフロックに、近頃|流行《はや》る白いスリップが胴衣《チョッキ》の胸開《むねあき》を沿うて細い筋を奇麗《きれい》にあらわしている。高柳君はなるほどいい手際《てぎわ》だと羨《うらや》ましく眺めていた。中野君はどう云《いう》ものか容易に坐らな
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