殺せられている。妻君は金にならぬ文章を道楽文章と云う。道楽文章を作るものを意気地《いくじ》なしと云う。
 道也の言葉を聞いた妻君は、火箸《ひばし》を灰のなかに刺したまま、
「今でも、そんな御金が這入《はい》る見込があるんですか」と不思議そうに尋ねた。
「今は昔より下落したと云うのかい。ハハハハハ」と道也先生は大きな声を出して笑った。妻君は毒気《どっき》を抜かれて口をあける。
「どうりゃ一勉強《ひとべんきょう》やろうか」と道也は立ち上がる。その夜彼は彼の著述人格論を二百五十頁までかいた。寝たのは二時過である。

        四

「どこへ行く」と中野君が高柳君をつらまえた。所は動物園の前である。太い桜の幹《みき》が黒ずんだ色のなかから、銀のような光りを秋の日に射返して、梢《こずえ》を離れる病葉《わくらば》は風なき折々行人《こうじん》の肩にかかる。足元には、ここかしこに枝を辞したる古い奴《やつ》ががさついている。
 色は様々である。鮮血を日に曝《さら》して、七日《なぬか》の間|日《ひ》ごとにその変化を葉裏に印して、注意なく一枚のなかに畳み込めたら、こんな色になるだろうと高柳君はさっきか
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