だ》しこのほかに仕事はいくらでもする。新聞にかく、雑誌にかく。かく事においては毎日毎夜筆を休ませた事はないくらいである。しかし金にはならない。たまさか二円、三円の報酬が彼の懐《ふところ》に落つる時、彼はかえって不思議に思うのみである。
 この物質的に何らの功能もない述作的労力の裡《うち》には彼の生命がある。彼の気魄《きはく》が滴々《てきてき》の墨汁《ぼくじゅう》と化して、一字一画に満腔《まんこう》の精神が飛動している。この断篇が読者の眼に映じた時、瞳裏《とうり》に一道の電流を呼び起して、全身の骨肉が刹那《せつな》に震《ふる》えかしと念じて、道也は筆を執《と》る。吾輩は道を載《の》す。道を遮《さえ》ぎるものは神といえども許さずと誓って紙に向う。誠は指頭《しとう》より迸《ほとばし》って、尖《とが》る毛穎《もうえい》の端《たん》に紙を焼く熱気あるがごとき心地にて句を綴《つづ》る。白紙が人格と化して、淋漓《りんり》として飛騰《ひとう》する文章があるとすれば道也の文章はまさにこれである。されども世は華族、紳商、博士、学士の世である。附属物が本体を踏み潰《つぶ》す世である。道也の文章は出るたびに黙
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