漂泊するうちに妻君はしだいと自分の傍を遠退《とおの》くようになった。
 妻君が自分の傍を遠退くのは漂泊のためであろうか、俸禄《ほうろく》を棄《す》てるためであろうか。何度漂泊しても、漂泊するたびに月給が上がったらどうだろう。妻君は依然として「あなたのように……」と不服がましい言葉を洩《も》らしたろうか。博士にでもなって、大学教授に転任してもやはり「あなたのように……」が繰り返されるであろうか。妻君の了簡《りょうけん》は聞いて見なければ分らぬ。
 博士になり、教授になり、空《むな》しき名を空しく世間に謳《うた》わるるがため、その反響が妻君の胸に轟《とどろ》いて、急に夫《おっと》の待遇を変えるならばこの細君は夫の知己《ちき》とは云えぬ。世の中が夫を遇する朝夕《ちょうせき》の模様で、夫の価値を朝夕に変える細君は、夫を評価する上において、世間並《せけんなみ》の一人である。嫁《とつ》がぬ前、名を知らぬ前、の己《おの》れと異なるところがない。従って夫から見ればあかの他人である。夫を知る点において嫁ぐ前と嫁ぐ後《のち》とに変りがなければ、少なくともこの点において細君らしいところがないのである。世界は
前へ 次へ
全222ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング