この細君らしからぬ細君をもって充満している。道也は自分の妻《さい》をやはりこの同類と心得ているだろうか。至る所に容《い》れられぬ上に、至る所に起居を共にする細君さえ自分を解してくれないのだと悟ったら、定めて心細いだろう。
 世の中はかかる細君をもって充満していると云った。かかる細君をもって充満しておりながら、皆円満にくらしている。順境にある者が細君の心事をここまでに解剖する必要がない。皮膚病に罹《かか》ればこそ皮膚の研究が必要になる。病気も無いのに汚ないものを顕微鏡《けんびきょう》で眺《なが》めるのは、事なきに苦しんで肥柄杓《こえびしゃく》を振り廻すと一般である。ただこの順境が一転して逆落《さかおと》しに運命の淵《ふち》へころがり込む時、いかな夫婦の間にも気まずい事が起る。親子の覊絆《きずな》もぽつりと切れる。美くしいのは血の上を薄く蔽《おお》う皮の事であったと気がつく。道也はどこまで気がついたか知らぬ。
 道也の三たび去ったのは、好んで自から窮地に陥《おちい》るためではない。罪もない妻に苦労を掛けるためではなおさらない。世間が己《おの》れを容れぬから仕方がないのである。世が容れぬなら
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