《うわかわ》たる附属物をもってすべてを律しようとする。この附属物と、公正なる人格と戦うとき世間は必ず、この附属物に雷同《らいどう》して他の人格を蹂躙《じゅうりん》せんと試みる。天下|一人《いちにん》の公正なる人格を失うとき、天下一段の光明を失う。公正なる人格は百の華族、百の紳商《しんしょう》、百の博士をもってするも償《つぐな》いがたきほど貴《たっと》きものである。われはこの人格を維持せんがために生れたるのほか、人世において何らの意義をも認め得ぬ。寒《かん》に衣《い》し、餓《うえ》に食《しょく》するはこの人格を維持するの一便法に過ぎぬ。筆を呵《か》し硯《すずり》を磨《ま》するのもまたこの人格を他の面上に貫徹するの方策に過ぎぬ。――これが今の道也の信念である。この信念を抱《いだ》いて世に処する道也は細君の御機嫌《ごきげん》ばかり取ってはおれぬ。
壁に掛けてあった小袖《こそで》を眺めていた道也はしばらくして、夕飯《ゆうめし》を済ましながら、
「どこぞへ行ったのかい」と聞く。
「ええ」と細君は二字の返事を与えた。道也は黙って、茶を飲んでいる。末枯《うらが》るる秋の時節だけにすこぶる閑静な問答
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