のでしょう」
「このてっか味噌は非常に辛《から》いな。どこで買って来たのだ」
「どこですか」
 道也先生は頭をあげて向《むこう》の壁を見た。鼠色《ねずみいろ》の寒い色の上に大きな細君の影が写っている。その影と妻君とは同じように無意義に道也の眼に映じた。
 影の隣りに糸織《いとおり》かとも思われる、女の晴衣《はれぎ》が衣紋竹《えもんだけ》につるしてかけてある。細君のものにしては少し派出《はで》過ぎるが、これは多少景気のいい時、田舎《いなか》で買ってやったものだと今だに記憶している。あの時分は今とはだいぶ考えも違っていた。己《おの》れと同じような思想やら、感情やら持っているものは珍らしくあるまいと信じていた。したがって文筆の力で自分から卒先《そっせん》して世間を警醒《けいせい》しようと云う気にもならなかった。
 今はまるで反対だ。世は名門を謳歌《おうか》する、世は富豪を謳歌する、世は博士、学士までをも謳歌する。しかし公正な人格に逢うて、位地を無にし、金銭を無にし、もしくはその学力、才芸を無にして、人格そのものを尊敬する事を解しておらん。人間の根本義たる人格に批判の標準を置かずして、その上皮
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