膳《ぜん》にして重箱《じゅうばこ》をかねたるごとき四角なものの前へ坐って箸《はし》を執《と》る。
「あら、まだ袴《はかま》を御脱ぎなさらないの、随分ね」と細君は飯を盛った茶碗を出す。
「忙《いそ》がしいものだから、つい忘れた」
「求めて、忙がしい思《おもい》をしていらっしゃるのだから、……」と云ったぎり、細君は、湯豆腐の鍋《なべ》と鉄瓶《てつびん》とを懸《か》け換《か》える。
「そう見えるかい」と道也先生は存外平気である。
「だって、楽で御金の取れる口は断っておしまいなすって、忙がしくって、一文にもならない事ばかりなさるんですもの、誰だって酔興《すいきょう》と思いますわ」
「思われてもしようがない。これがおれの主義なんだから」
「あなたは主義だからそれでいいでしょうさ。しかし私《わたくし》は……」
「御前は主義が嫌《きらい》だと云うのかね」
「嫌も好《すき》もないんですけれども、せめて――人並には――なんぼ私だって……」
「食えさえすればいいじゃないか、贅沢《ぜいたく》を云《い》や誰だって際限はない」
「どうせ、そうでしょう。私なんざどんなになっても御構《おかま》いなすっちゃ下さらない
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