切れたから、てっか味噌《みそ》を買って来たと云っている。豆腐《とうふ》が五厘高くなったと云っている。裏の専念寺で夕《ゆうべ》の御務《おつと》めをかあんかあんやっている。
 細君の顔がまた襖の後ろから出た。
「あなた」
 道也先生は、いつの間にやら、筆記帳を閉じて、今度はまた別の紙へ、何か熱心に認《したた》めている。
「あなた」と妻君は二度呼んだ。
「何だい」
「御飯です」
「そうか、今行くよ」
 道也先生はちょっと細君と顔を合せたぎり、すぐ机へ向った。細君の顔もすぐ消えた。台所の方でくすくす笑う声がする。道也先生はこの一節をかき終るまでは飯も食いたくないのだろう。やがて句切りのよい所へ来たと見えて、ちょっと筆を擱《お》いて、傍《そば》へ積んだ草稿をはぐって見て「二百三十一|頁《ページ》」と独語した。著述でもしていると見える。
 立って次の間へ這入《はい》る。小さな長火鉢《ながひばち》に平鍋《ひらなべ》がかかって、白い豆腐が煙りを吐《は》いて、ぷるぷる顫《ふる》えている。
「湯豆腐かい」
「はあ、何にもなくて、御気の毒ですが……」
「何、なんでもいい。食ってさえいれば何でも構わない」と、
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