問である。しかし普通一般の女性であるからには装飾気なきこの空気のうちに生息《せいそく》する結果として、自然この方向に進行するのが順当であろう。現に進行しつつあるかも知れぬ。
 道也先生はやがて懐《ふところ》から例の筆記帳を出して、原稿紙の上へ写し始めた。袴《はかま》を着けたままである。かしこまったままである。袴を着けたまま、かしこまったままで、中野輝一《なかのきいち》の恋愛論を筆記している。恋とこの室《へや》、恋とこの道也とはとうてい調和しない。道也は何と思って浄書しているかしらん。人は様々である、世も様々である。様々の世に、様々の人が動くのもまた自然の理である。ただ大きく動くものが勝ち、深く動くものが勝たねばならぬ。道也は、あの金縁《きんぶち》の眼鏡《めがね》を掛けた恋愛論よりも、小さくかつ浅いと自覚して、かく慎重に筆記を写し直しているのであろうか。床《とこ》の後《うし》ろで※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》が鳴いている。
 細君が襖《ふすま》をすうと開けた。道也は振り向きもしない。「まあ」と云ったなり細君の顔は隠れた。
 下女は帰ったようである。煮豆《にまめ》が
前へ 次へ
全222ページ中51ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング