れ訪問する訳になりましたので――そこで実はちょっと往って来てくれと頼まれて来たのですが、御差支《おさしつかえ》がなければ、御話を筆記して参りたいと思います」
 道也先生は静かに懐《ふところ》から手帳と鉛筆を取り出した。取り出しはしたものの別に筆記したい様子もなければ強《し》いて話させたい景色《けしき》も見えない。彼はかかる愚《ぐ》な問題を、かかる青年の口から解決して貰いたいとは考えていない。
「なるほど」と青年は、耀《かが》やく眼を挙《あ》げて、道也先生を見たが、先生は宵越《よいごし》の麦酒《ビール》のごとく気の抜けた顔をしているので、今度は「さよう」と長く引っ張って下を向いてしまった。
「どうでしょう、何か御説はありますまいか」と催促を義理ずくめにする。ありませんと云ったら、すぐ帰る気かも知れない。
「そうですね。あったって、僕のようなものの云う事は雑誌へ載《の》せる価値はありませんよ」
「いえ結構です」
「全体どこから、聞いていらしったんです。あまり突然じゃ纏《まとま》った話の出来るはずがないですから」
「御名前は社主が折々雑誌の上で拝見するそうで」
「いえ、どうしまして」と中野君
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