は横を向いた。
「何でもよいですから、少し御話し下さい」
「そうですね」と青年は窓の外を見て躊躇《ちゅうちょ》している。
「せっかく来たものですから」
「じゃ何か話しましょう」
「はあ、どうぞ」と道也先生鉛筆を取り上げた。
「いったい煩悶と云う言葉は近頃だいぶはやるようだが、大抵は当座のもので、いわゆる三日坊主《みっかぼうず》のものが多い。そんな種類の煩悶は世の中が始まってから、世の中がなくなるまで続くので、ちっとも問題にはならないでしょう」
「ふん」と道也先生は下を向いたなり、鉛筆を動かしている。紙の上を滑《すべ》らす音が耳立って聞える。
「しかし多くの青年が一度は必ず陥《おちい》る、また必ず陥るべく自然から要求せられている深刻な煩悶が一つある。……」
鉛筆の音がする。
「それは何だと云うと――恋である……」
道也先生はぴたりと筆記をやめて、妙な顔をして、相手を見た。中野君は、今さら気がついたようにちょっとしょげ返ったが、すぐ気を取り直して、あとをつづけた。
「ただ恋と云うと妙に御聞きになるかも知れない。また近頃はあまり恋愛呼ばりをするのを人が遠慮するようであるが、この種の煩悶《
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