す。しかし暇はかえってない方がいいかも知れない。何ですね。暇のあるものはだいぶいるようだが、余り誰も何もやっていないようじゃありませんか」
「それは人に依《よ》りはしませんか」と高柳君はおれが暇さえあればと云うところを暗《あん》にほのめかした。
「人にも依るでしょう。しかし今の金持ちと云うものは……」と道也は句を半分で切って、机の上を見た。机の上には二寸ほどの厚さの原稿がのっている。障子には洗濯した足袋《たび》の影がさす。
「金持ちは駄目です。金がなくって困ってるものが……」
「金がなくって困ってるものは、困りなりにやればいいのです」と道也先生困ってる癖に太平な事を云う。高柳君は少々不満である。
「しかし衣食のために勢力をとられてしまって……」
「それでいいのですよ。勢力をとられてしまったら、ほかに何にもしないで構わないのです」
青年は唖然《あぜん》として、道也を見た。道也は孔子様のように真面目《まじめ》である。馬鹿にされてるんじゃたまらないと高柳君は思う。高柳君は大抵の事を馬鹿にされたように聞き取る男である。
「先生ならいいかも知れません」とつるつると口を滑《すべ》らして、はっと言い過ぎたと下を向いた。道也は何とも思わない。
「わたしは無論いい。あなただって好いですよ」と相手までも平気に捲《ま》き込もうとする。
「なぜですか」と二三歩逃げて、振り向きながら佇《たたず》む狐のように探《さぐ》りを入れた。
「だって、あなたは文学をやったと云われたじゃありませんか。そうですか」
「ええやりました」と力を入れる。すべて他の点に関しては断乎《だんこ》たる返事をする資格のない高柳君は自己の本領においては何人《なんびと》の前に出てもひるまぬつもりである。
「それならいい訳だ。それならそれでいい訳だ」と道也先生は繰り返して云った。高柳君には何の事か少しも分らない。また、なぜです[#「なぜです」に傍点]と突き込むのも、何だか伏兵《ふくへい》に罹《かか》る気持がして厭《いや》である。ちょっと手のつけようがないので、黙って相手の顔を見た。顔を見ているうちに、先方でどうか解決してくれるだろうと、暗《あん》に催促の意を籠《こ》めて見たのである。
「分りましたか」と道也先生が云う。顔を見たのはやっぱり何の役にも立たなかった。
「どうも」と折れざるを得ない。
「だってそうじゃありませんか。―
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