た。そうして尚志会《しょうしかい》の寄附金を無理に取って、また床屋へ引き返したぜ」
「ハハハハなるほど敏捷《びんしょう》なものだ。それじゃ御互になるべく食う事にしよう。敏捷にせんと、卒業してから困るからな」
「そうよ。文学士のように二十円くらいで下宿に屏息《へいそく》していては人間と生れた甲斐《かい》はないからな」
 高柳君は勘定をして立ち上った。ありがとうと云う下女の声に、文芸倶楽部の上につっ伏していた書生が、赤い眼をとろつかせて、睨《にら》めるように高柳君を見た。牛の乳のなかの酸に中毒でもしたのだろう。

        六

「私は高柳周作《たかやなぎしゅうさく》と申すもので……」と丁寧に頭を下げた。高柳君が丁寧に頭を下げた事は今まで何度もある。しかしこの時のように快よく頭を下げた事はない。教授の家を訪問しても、翻訳を頼まれる人に面会しても、その他の先輩に対しても皆丁寧に頭をさげる。せんだって中野のおやじに紹介された時などはいよいよもって丁寧に頭をさげた。しかし頭を下げるうちにいつでも圧迫を感じている。位地、年輩、服装、住居が睥睨《へいげい》して、頭を下げぬか、下げぬかと催促されてやむを得ず頓首《とんしゅ》するのである。道也《どうや》先生に対しては全く趣《おもむき》が違う。先生の服装は中野君の説明したごとく、自分と伯仲《はくちゅう》の間にある。先生の書斎は座敷をかねる点において自分の室《へや》と同様である。先生の机は白木なるの点において、丸裸なるの点において、またもっとも無趣味に四角張ったる点において自分の机と同様である。先生の顔は蒼《あお》い点において瘠《や》せた点において自分と同様である。すべてこれらの諸点において、先生と弟《てい》たりがたく兄《けい》たりがたき間柄《あいだがら》にありながら、しかも丁寧に頭を下げるのは、逼《せ》まられて仕方なしに下げるのではない。仕方あるにもかかわらず、こっちの好意をもって下げるのである。同類に対する愛憐《あいれん》の念より生ずる真正の御辞儀《おじぎ》である。世間に対する御辞儀はこの野郎がと心中に思いながらも、公然には反比例に丁寧を極《きわ》めたる虚偽《きょぎ》の御辞儀でありますと断わりたいくらいに思って、高柳君は頭を下げた。道也先生はそれと覚《さと》ったかどうか知らぬ。
「ああ、そうですか、私《わたし》が白井道也で……」
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