あれば腰の抜けたる学徒である。学徒は光明を体せん事を要す。光明より流れ出ずる趣味を現実せん事を要す。しかしてこれを現実《げんじつ》せんがために、拘泥《こうでい》せざらん事を要す。拘泥せざらんがために解脱《げだつ》を要す」
 高柳君は雑誌を開いたまま、茫然《ぼうぜん》として眼を挙《あ》げた。正面の柱にかかっている、八角時計がぼうんと一時を打つ。柱の下の椅子《いす》にぽつ然《ねん》と腰を掛けていた小女郎《こじょろう》が時計の音と共に立ち上がった。丸テーブルの上には安い京焼《きょうやき》の花活《はないけ》に、浅ましく水仙を突きさして、葉の先が黄ばんでいるのを、いつまでもそのままに水をやらぬ気と見える。小女郎は水仙の花にちょっと手を触れて、花活《はないけ》のそばにある新聞をとり上げた。読むかと思ったら四つに畳んで傍《かたわら》に置いた。この女は用もないのに立ち上がったのである。退屈のあまり、ぼうんを聞いて器械的に立ち上がったのである。羨《うらや》ましい女だと高柳君はすぐ思う。
 菊人形の収入についての議論は片づいたと見えて、二人の学生は煙草《たばこ》をふかして往来を見ている。
「おや、富田《とみた》が通る」と一人が云う。
「どこに」と一人が聞く。富田君は三寸ばかり開いていた硝子戸《ガラスど》の間をちらと通り抜けたのである。
「あれは、よく食う奴《やつ》じゃな」
「食う、食う」と答えたところによるとよほど食うと見える。
「人間は食う割《わり》に肥《ふと》らんものだな。あいつはあんなに食う癖にいっこう肥《こ》えん」
「書物は沢山読むが、ちっとも、えろうならんのがおると同じ事じゃ」
「そうよ。御互に勉強はなるべくせん方がいいの」
「ハハハハ。そんなつもりで云ったんじゃない」
「僕はそう云うつもりにしたのさ」
「富田は肥《ふと》らんがなかなか敏捷《びんしょう》だ。やはり沢山食うだけの事はある」
「敏捷な事があるものか」
「いや、この間四丁目を通ったら、後ろから出し抜けに呼ぶものがあるから、振り反ると富田だ。頭を半分|刈《か》ったままで、大きな敷布のようなものを肩から纏《まと》うている」
「元来どうしたのか」
「床屋から飛び出して来たのだ」
「どうして」
「髪を刈っておったら、僕の影が鏡に写ったものだから、すぐ馳《か》け出したんだそうだ」
「ハハハハそいつは驚ろいた」
「おれも驚ろい
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