する必要がないからである。……」
高柳君は冷《さ》めかかった牛乳をぐっと飲んで、ううと云った。
「第二の解脱法は常人《じょうじん》の解脱法である。常人の解脱法は拘泥を免《まぬ》かるるのではない、拘泥せねばならぬような苦しい地位に身を置くのを避けるのである。人の視聴を惹《ひ》くの結果、われより苦痛が反射せぬようにと始めから用心するのである。したがって始めより流俗《りゅうぞく》に媚《こ》びて一世に附和《ふわ》する心底《しんてい》がなければ成功せぬ。江戸風な町人はこの解脱法を心得ている。芸妓通客《げいぎつうかく》はこの解脱法を心得ている。西洋のいわゆる紳士《ゼントルマン》はもっともよくこの解脱法を心得たものである。……」
芸者と紳士《ゼントルマン》がいっしょになってるのは、面白いと、青年はまた焼麺麭《やきパン》の一|片《ぺん》を、横合から半円形に食い欠いた。親指についた牛酪《バタ》をそのまま袴《はかま》の膝《ひざ》へなすりつけた。
「芸妓、紳士、通人《つうじん》から耶蘇《ヤソ》孔子《こうし》釈迦《しゃか》を見れば全然たる狂人である。耶蘇、孔子、釈迦から芸妓、紳士、通人を見れば依然として拘泥《こうでい》している。拘泥のうちに拘泥を脱し得たりと得意なるものは彼らである。両者の解脱《げだつ》は根本義において一致すべからざるものである。……」
高柳君は今まで解脱の二字においてかつて考えた事はなかった。ただ文界に立って、ある物になりたい、なりたいがなれない、なれんのではない、金がない、時がない、世間が寄ってたかって己《おの》れを苦しめる、残念だ無念だとばかり思っていた。あとを読む気になる。
「解脱は便法《べんぽう》に過ぎぬ。下《くだ》れる世に立って、わが真を貫徹し、わが善を標榜《ひょうぼう》し、わが美を提唱するの際、※[#「てへん+施のつくり」、第3水準1−84−74]泥帯水《たでいたいすい》の弊《へい》をまぬがれ、勇猛精進《ゆうもうしょうじん》の志《こころざし》を固くして、現代|下根《げこん》の衆生《しゅじょう》より受くる迫害の苦痛を委却《いきゃく》するための便法である。この便法を証得《しょうとく》し得ざる時、英霊の俊児《しゅんじ》、またついに鬼窟裏《きくつり》に堕在《だざい》して彼のいわゆる芸妓紳士通人と得失を較《こう》するの愚《ぐ》を演じて憚《はば》からず。国家のため悲
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