いて等しく拘泥《こうでい》を免《まぬ》かれぬところが、身体《からだ》より煩《わずら》いになる。
「一能《いちのう》の士《し》は一能に拘泥《こうでい》し、一芸《いちげい》の人は一芸に拘泥して己《おの》れを苦しめている。芸能は気の持ちようではすぐ忘れる事も出来る。わが欠点に至っては容易に解脱《げだつ》は出来ぬ。
「百円や二百円もする帯をしめて女が音楽会へ行くとこの帯が妙に気になって音楽が耳に入らぬ事がある。これは帯に拘泥《こうでい》するからである。しかしこれは自慢の例じゃ。得意の方は前云う通り祟《たた》りを避け易《やす》い。しかし不面目《ふめんぼく》の側はなかなか強情に祟《たた》る。昔しさる所で一人の客に紹介された時、御互に椅子の上で礼をして双方共|頭《かしら》を下げた。下げながら、向うの足を見るとその男の靴足袋《くつたび》の片々《かたかた》が破れて親指の爪が出ている。こちらが頭を下げると同時に彼は満足な足をあげて、破《や》れ足袋《たび》の上に加えた。この人は足袋の穴に拘泥していたのである。……」
おれも拘泥している。おれのからだは穴だらけだと高柳君は思いながら先へ進む。
「拘泥は苦痛である。避けなければならぬ。苦痛そのものは避けがたい世であろう。しかし拘泥の苦痛は一日で済む苦痛を五日《いつか》、七日《なぬか》に延長する苦痛である。いらざる苦痛である。避けなければならぬ。
「自己が拘泥するのは他人が自己に注意を集注すると思うからで、つまりは他人が拘泥するからである。……」
高柳君は音楽会の事を思いだした。
「したがって拘泥を解脱するには二つの方法がある。他人がいくら拘泥しても自分は拘泥せぬのが一つの解脱法である。人が目を峙《そばだ》てても、耳を聳《そび》やかしても、冷評しても罵詈《ばり》しても自分だけは拘泥せずにさっさと事を運んで行く。大久保彦左衛門《おおくぼひこざえもん》は盥《たらい》で登城《とじょう》した事がある。……」
高柳君は彦左衛門が羨《うらや》ましくなった。
「立派な衣装《いしょう》を馬士《まご》に着せると馬士はすぐ拘泥してしまう。華族や大名はこの点において解脱の方を得ている。華族や大名に馬士の腹掛《はらがけ》をかけさすと、すぐ拘泥してしまう。釈迦《しゃか》や孔子《こうし》はこの点において解脱を心得ている。物質界に重《おもき》を置かぬものは物質界に拘泥
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