は食い欠いた焼麺麭《やきパン》を皿の上へ置いたなり「僕の恋愛観」を見ていたがやがて、にやりと笑った。恋愛観の結末に同じく色鉛筆で色情狂※[#感嘆符三つ、320−13] と書いてある。高柳君は頁をはぐった。六号活字はだいぶ長い。もっともいろいろの人の名前が出ている。一番始めには現代青年の煩悶《はんもん》に対する諸家の解決とある。高柳君は急に読んで見る気になった。――第一は静心《せいしん》の工夫《くふう》を積めと云う注意だ。積めとはどう積むのかちっともわからない。第二は運動をして冷水摩擦《れいすいまさつ》をやれと云う。簡単なものである。第三は読書もせず、世間も知らぬ青年が煩悶《はんもん》する法がないと論じている。無いと云っても有れば仕方がない。第四は休暇ごとに必ず旅行せよと勧告している。しかし旅費の出処は明記してない。――高柳君はあとを読むのが厭《いや》になった。颯《さっ》と引っくりかえして、第一頁をあける。「解脱《げだつ》と拘泥《こうでい》……憂世子《ゆうせいし》」と云うのがある。標題が面白いのでちょっと目を通す。
「身体《からだ》の局部がどこぞ悪いと気にかかる。何をしていても、それがコダワ[#「コダワ」に傍点]って来る。ところが非常に健康な人は行住坐臥《ぎょうじゅうざが》ともにわが身体の存在を忘れている。一点の局部だにわが注意を集注すべき患所《かんしょ》がないから、かく安々と胖《ゆた》かなのである。瘠《や》せて蒼《あお》い顔をしている人に、君は胃が悪いだろうと尋ねて見た事がある。するとその男が答えて、胃は少しも故障がない、その証拠には僕はこの年になるが、いまだに胃がどこにあるか知らないと云うた。その時は笑って済んだが、後《あと》で考えて見ると大《おおい》に悟《さと》った言葉である。この人は全く胃が健康だから胃に拘泥《こうでい》する必要がない、必要がないから胃がどこにあっても構わないのと見える。自在飲《じざいいん》、自在食《じざいしょく》、いっこう平気である。この男は胃において悟《さとり》を開いたものである。……」
高柳君はこれは少し妙だよと口のなかで云った。胃の悟りは妙だと云った。
「胃について道《い》い得べき事は、惣身《そうしん》についても道い得べき事である。惣身について道い得べき事は、精神についても道《い》い得べき事である。ただ精神生活においては得失の両面にお
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