い。片手を椅子の背に凭《も》たせて、立ちながら後ろから、左右へかけて眺めている。多くの人の視線は彼の上に落ちた。中野君は平気である。高柳君はこの平気をまた羨《うらや》ましく感じた。
 しばらくすると、中野君は千以上陳列せられたる顔のなかで、ようやくあるものを物色し得たごとく、豊かなる双頬《そうきょう》に愛嬌《あいきょう》の渦《うず》を浮かして、軽《かろ》く何人《なんびと》にか会釈《えしゃく》した。高柳君は振り向かざるを得ない。友の挨拶《あいさつ》はどの辺《へん》に落ちたのだろうと、こそばゆくも首を捩《ね》じ向けて、斜《なな》めに三段ばかり上を見ると、たちまち目つかった。黒い髪のただ中に黄の勝った大きなリボンの蝶《ちょう》を颯《さっ》とひらめかして、細くうねる頸筋《くびすじ》を今真直に立て直す女の姿が目つかった。紅《くれな》いは眼の縁《ふち》を薄く染めて、潤《うるお》った眼睫《まつげ》の奥から、人の世を夢の底に吸い込むような光りを中野君の方に注いでいる。高柳君はすわやと思った。
 わが穿《は》く袴《はかま》は小倉《こくら》である。羽織は染めが剥《は》げて、濁った色の上に垢《あか》が容赦《ようしゃ》なく日光を反射する。湯には五日前に這入《はい》ったぎりだ。襯衣《シャツ》を洗わざる事は久しい。音楽会と自分とはとうてい両立するものでない。わが友と自分とは?――やはり両立しない。友のハイカラ姿とこの魔力ある眼の所有者とは、千里を隔てても無線の電気がかかるべく作られている。この一堂の裡《うち》に綺羅《きら》の香《かお》りを嗅《か》ぎ、和楽の温《あたた》かみを吸うて、落ち合うからは、二人の魂は無論の事、溶《と》けて流れて、かき鳴らす箏《こと》の線《いと》の細きうちにも、めぐり合わねばならぬ。演奏会は数千の人を集めて、数千の人はことごとく双手《そうしゅ》を挙《あ》げながらこの二人を歓迎している。同じ数千の人はことごとく五|指《し》を弾《はじ》いて、われ一人を排斥している。高柳君はこんな所へ来なければよかったと思った。友はそんな事を知りようがない。
「もう時間だ、始まるよ」と活版に刷った曲目を見ながら云う。
「そうか」と高柳君は器械的に眼を活版の上に落した。
 一、バイオリン、セロ、ピヤノ合奏とある。高柳君はセロの何物たるを知らぬ。二、ソナタ……ベートーベン作とある。名前だけは心得て
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