の下に百里の眺《なが》めが展開する時の感じはこれである。演奏台は遥《はる》かの谷底にある。近づくためには、登り詰めた頂から、規則正しく排列された人間の間を一直線に縫うがごとくに下りて、自然と逼《せま》る擂鉢《すりばち》の底に近寄らねばならぬ。擂鉢《すりばち》の底は半円形を劃して空に向って広がる内側面には人間の塀《へい》が段々に横輪をえがいている。七八段を下りた高柳君は念のために振り返って擂鉢の側面を天井《てんじょう》まで見上げた時、目がちらちらしてちょっと留った。excuse me と云って、大きな異人が、高柳君を蔽《おお》いかぶせるようにして、一段下へ通り抜けた。駝鳥《だちょう》の白い毛が鼻の先にふらついて、品のいい香りがぷんとする。あとから、脳巓《のうてん》の禿《は》げた大男が絹帽《シルクハット》を大事そうに抱えて身を横にして女につきながら、二人を擦《す》り抜ける。
「おい、あすこに椅子が二つ空《あ》いている」と物馴《ものな》れた中野君は階段を横へ切れる。並んでいる人は席を立って二人を通す。自分だけであったら、誰も席を立ってくれるものはあるまいと高柳君は思った。
「大変な人だね」と椅子に腰をおろしながら中野君は満場を見廻わす。やがて相手の服装に気がついた時、急に小声になって、
「おい、帽子をとらなくっちゃ、いけないよ」と云う。
 高柳君は卒然として帽子を取って、左右をちょっと見た。三四人の眼が自分の頭の上に注《そそ》がれていたのを発見した時、やっぱり包囲攻撃だなと思った。なるほど帽子を被《かぶ》っていたものはこの広い演奏場に自分一人である。
「外套《がいとう》は着ていてもいいのか」と中野君に聞いて見る。
「外套は構わないんだ。しかしあつ過ぎるから脱ごうか」と中野君はちょっと立ち上がって、外套の襟《えり》を三寸ばかり颯《さ》と返したら、左の袖《そで》がするりと抜けた、右の袖を抜くとき、領《えり》のあたりをつまんだと思ったら、裏を表《おも》てに、外套ははや畳まれて、椅子《いす》の背中《せなか》を早くも隠した。下は仕立《した》ておろしのフロックに、近頃|流行《はや》る白いスリップが胴衣《チョッキ》の胸開《むねあき》を沿うて細い筋を奇麗《きれい》にあらわしている。高柳君はなるほどいい手際《てぎわ》だと羨《うらや》ましく眺めていた。中野君はどう云《いう》ものか容易に坐らな
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