教えた。
「よく、知ってるね。君はあの人の家来かい」
「家来じゃない」と中野君は真面目《まじめ》に弁解した。高柳君は腹のなかでまたちょっと愉快を覚えた。
「どうだい行こうじゃないか。時間がおくれるよ」
「おくれると逢えないと云うのかね」
中野君は、すこし赤くなった。怒ったのか、弱点をつかれたためか、恥ずかしかったのか、わかるのは高柳君だけである。
「とにかく行こう。君はなんでも人の集まる所やなにかを嫌ってばかりいるから、一人坊《ひとりぼ》っちになってしまうんだよ」
打つものは打たれる。参るのは今度こそ高柳君の番である。一人坊っちと云う言葉を聞いた彼は、耳がしいんと鳴って、非常に淋しい気持がした。
「いやかい。いやなら仕方がない。僕は失敬する」
相手は同情の笑を湛《たた》えながら半歩|踵《くびす》をめぐらしかけた。高柳君はまた打たれた。
「いこう」と単簡《たんかん》に降参する。彼が音楽会へ臨むのは生れてから、これが始めてである。
玄関にかかった時は受付が右へ左りへの案内で忙殺《ぼうさつ》されて、接待掛りの胸につけた、青いリボンを見失うほど込み合っていた。突き当りを右へ折れるのが上等で、左りへ曲がるのが並等である。下等はないそうだ。中野君は無論上等である。高柳君を顧みながら、こっちだよと、さも物馴《ものな》れたさまに云う。今日に限って、特別に下等席を設けて貰って、そこへ自分だけ這入《はい》って聴《き》いて見たいと一人坊っちの青年は、中野君のあとをつきながら階段を上ぼりつつ考えた。己《おの》れの右を上《のぼ》る人も、左りを上る人も、またあとからぞろぞろついて来るものも、皆異種類の動物で、わざと自分を包囲して、のっぴきさせず二階の大広間へ押し上げた上、あとから、慰み半分に手を拍《う》って笑う策略《さくりゃく》のように思われた。後ろを振り向くと、下から緑《みど》りの滴《した》たる束髪《そくはつ》の脳巓《のうてん》が見える。コスメチックで奇麗《きれい》な一直線を七分三分の割合に錬《ね》り出した頭蓋骨《ずがいこつ》が見える。これらの頭が十も二十も重なり合って、もう高柳周作は一歩でも退く事はならぬとせり上がってくる。
楽堂の入口を這入《はい》ると、霞《かすみ》に酔うた人のようにぽうっとした。空を隠す茂みのなかを通り抜けて頂《いただき》に攀《よ》じ登った時、思いも寄らぬ、眼
前へ
次へ
全111ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング