こう》のいい姿を包んで、顋《あご》の下に真珠の留針《とめばり》を輝かしている。――高柳君は相手の姿を見守ったなり黙っていた。
「どこへ行く」と青年は再び問うた。
「今図書館へ行った帰りだ」と相手はようやく答えた。
「また地理学教授法じゃないか。ハハハハ。何だか不景気な顔をしているね。どうかしたかい」
「近頃は喜劇の面《めん》をどこかへ遺失《おと》してしまった」
「また新橋の先まで探《さ》がしに行って、拳突《けんつく》を喰ったんじゃないか。つまらない」
「新橋どころか、世界中探がしてあるいても落ちていそうもない。もう、御やめだ」
「何を」
「何でも御やめだ」
「万事御やめか。当分御やめがよかろう。万事御やめにして僕といっしょに来たまえ」
「どこへ」
「今日はそこに慈善音楽会があるんで、切符を二枚買わされたんだが、ほかに誰も行《い》き手《て》がないから、ちょうどいい。君行きたまえ」
「いらない切符などを買うのかい。もったいない事をするんだな」
「なに義理だから仕方がない。おやじが買ったんだが、おやじは西洋音楽なんかわからないからね」
「それじゃ余った方を送ってやればいいのに」
「実は君の所へ送ろうと思ったんだが……」
「いいえ。あすこへさ」
「あすことは。――うん。あすこか。何、ありゃ、いいんだ。自分でも買ったんだ」
高柳君は何とも返事をしないで、相手を真正面から見ている。中野君は少々恐縮の微笑を洩《も》らして、右の手に握ったままの、山羊《やぎ》の手袋で外套《がいとう》の胸をぴしゃぴしゃ敲《たた》き始めた。
「穿《は》めもしない手袋を握ってあるいてるのは何のためだい」
「なに、今ちょっと隠袋《ポッケット》から出したんだ」と云いながら中野君は、すぐ手袋をかくしの裏《うち》に収めた。高柳君の癇癪《かんしゃく》はこれで少々治《おさ》まったようである。
ところへ後ろからエーイと云う掛声がして蹄《ひづめ》の音が風を動かしてくる。両人《ふたり》は足早に道傍《みちばた》へ立ち退《の》いた。黒塗《くろぬり》のランドーの蓋《おおい》を、秋の日の暖かきに、払い退けた、中には絹帽《シルクハット》が一つ、美しい紅《くれな》いの日傘《ひがさ》が一つ見えながら、両人の前を通り過ぎる。
「ああ云う連中が行くのかい」と高柳君が顋《あご》で馬車の後ろ影を指《さ》す。
「あれは徳川侯爵だよ」と中野君は
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