膳《ぜん》にして重箱《じゅうばこ》をかねたるごとき四角なものの前へ坐って箸《はし》を執《と》る。
「あら、まだ袴《はかま》を御脱ぎなさらないの、随分ね」と細君は飯を盛った茶碗を出す。
「忙《いそ》がしいものだから、つい忘れた」
「求めて、忙がしい思《おもい》をしていらっしゃるのだから、……」と云ったぎり、細君は、湯豆腐の鍋《なべ》と鉄瓶《てつびん》とを懸《か》け換《か》える。
「そう見えるかい」と道也先生は存外平気である。
「だって、楽で御金の取れる口は断っておしまいなすって、忙がしくって、一文にもならない事ばかりなさるんですもの、誰だって酔興《すいきょう》と思いますわ」
「思われてもしようがない。これがおれの主義なんだから」
「あなたは主義だからそれでいいでしょうさ。しかし私《わたくし》は……」
「御前は主義が嫌《きらい》だと云うのかね」
「嫌も好《すき》もないんですけれども、せめて――人並には――なんぼ私だって……」
「食えさえすればいいじゃないか、贅沢《ぜいたく》を云《い》や誰だって際限はない」
「どうせ、そうでしょう。私なんざどんなになっても御構《おかま》いなすっちゃ下さらないのでしょう」
「このてっか味噌は非常に辛《から》いな。どこで買って来たのだ」
「どこですか」
 道也先生は頭をあげて向《むこう》の壁を見た。鼠色《ねずみいろ》の寒い色の上に大きな細君の影が写っている。その影と妻君とは同じように無意義に道也の眼に映じた。
 影の隣りに糸織《いとおり》かとも思われる、女の晴衣《はれぎ》が衣紋竹《えもんだけ》につるしてかけてある。細君のものにしては少し派出《はで》過ぎるが、これは多少景気のいい時、田舎《いなか》で買ってやったものだと今だに記憶している。あの時分は今とはだいぶ考えも違っていた。己《おの》れと同じような思想やら、感情やら持っているものは珍らしくあるまいと信じていた。したがって文筆の力で自分から卒先《そっせん》して世間を警醒《けいせい》しようと云う気にもならなかった。
 今はまるで反対だ。世は名門を謳歌《おうか》する、世は富豪を謳歌する、世は博士、学士までをも謳歌する。しかし公正な人格に逢うて、位地を無にし、金銭を無にし、もしくはその学力、才芸を無にして、人格そのものを尊敬する事を解しておらん。人間の根本義たる人格に批判の標準を置かずして、その上皮
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