問である。しかし普通一般の女性であるからには装飾気なきこの空気のうちに生息《せいそく》する結果として、自然この方向に進行するのが順当であろう。現に進行しつつあるかも知れぬ。
道也先生はやがて懐《ふところ》から例の筆記帳を出して、原稿紙の上へ写し始めた。袴《はかま》を着けたままである。かしこまったままである。袴を着けたまま、かしこまったままで、中野輝一《なかのきいち》の恋愛論を筆記している。恋とこの室《へや》、恋とこの道也とはとうてい調和しない。道也は何と思って浄書しているかしらん。人は様々である、世も様々である。様々の世に、様々の人が動くのもまた自然の理である。ただ大きく動くものが勝ち、深く動くものが勝たねばならぬ。道也は、あの金縁《きんぶち》の眼鏡《めがね》を掛けた恋愛論よりも、小さくかつ浅いと自覚して、かく慎重に筆記を写し直しているのであろうか。床《とこ》の後《うし》ろで※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》が鳴いている。
細君が襖《ふすま》をすうと開けた。道也は振り向きもしない。「まあ」と云ったなり細君の顔は隠れた。
下女は帰ったようである。煮豆《にまめ》が切れたから、てっか味噌《みそ》を買って来たと云っている。豆腐《とうふ》が五厘高くなったと云っている。裏の専念寺で夕《ゆうべ》の御務《おつと》めをかあんかあんやっている。
細君の顔がまた襖の後ろから出た。
「あなた」
道也先生は、いつの間にやら、筆記帳を閉じて、今度はまた別の紙へ、何か熱心に認《したた》めている。
「あなた」と妻君は二度呼んだ。
「何だい」
「御飯です」
「そうか、今行くよ」
道也先生はちょっと細君と顔を合せたぎり、すぐ机へ向った。細君の顔もすぐ消えた。台所の方でくすくす笑う声がする。道也先生はこの一節をかき終るまでは飯も食いたくないのだろう。やがて句切りのよい所へ来たと見えて、ちょっと筆を擱《お》いて、傍《そば》へ積んだ草稿をはぐって見て「二百三十一|頁《ページ》」と独語した。著述でもしていると見える。
立って次の間へ這入《はい》る。小さな長火鉢《ながひばち》に平鍋《ひらなべ》がかかって、白い豆腐が煙りを吐《は》いて、ぷるぷる顫《ふる》えている。
「湯豆腐かい」
「はあ、何にもなくて、御気の毒ですが……」
「何、なんでもいい。食ってさえいれば何でも構わない」と、
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