はんもん》は大《おおい》なる事実であって、事実の前にはいかなるものも頭を下げねばならぬ訳だからどうする事も出来ないのである」
 道也先生はまた顔をあげた。しかし彼の長い蒼白《あおじろ》い相貌《そうぼう》の一微塵《いちみじん》だも動いておらんから、彼の心のうちは無論わからない。
「我々が生涯《しょうがい》を通じて受ける煩悶《はんもん》のうちで、もっとも痛切なもっとも深刻な、またもっとも劇烈な煩悶は恋よりほかにないだろうと思うのです。それでですね、こう云う強大な威力のあるものだから、我々が一度《ひとた》びこの煩悶の炎火《えんか》のうちに入ると非常な変形をうけるのです」
「変形? ですか」
「ええ形を変ずるのです。今まではただふわふわ浮いていた。世の中と自分の関係がよくわからないで、のんべんぐらりんに暮らしていたのが、急に自分が明瞭《めいりょう》になるんです」
「自分が明瞭とは?」
「自分の存在がです。自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないが、しかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯|悟《さと》る事が出来ないのです。この浄罪界に足を入れたものでなければけっして天国へは登れまいと思うのです。ただ楽天だってしようがない。恋の苦《くるし》みを甞《な》めて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃ、うそです。それだから恋の煩悶はけっして他の方法によって解決されない。恋を解決するものは恋よりほかにないです。恋は吾人《ごじん》をして煩悶せしめて、また吾人をして解脱《げだつ》せしむるのである。……」
「そのくらいなところで」と道也先生は三度目に顔を挙《あ》げた。
「まだ少しあるんですが……」
「承《うけたまわ》るのはいいですが、だいぶ多人数の意見を載せるつもりですから、かえってあとから削除《さくじょ》すると失礼になりますから」
「そうですか、それじゃそのくらいにして置きましょう。何だかこんな話をするのは始めてですから、さぞ筆記しにくかったでしょう」
「いいえ」と道也先生は手帳を懐《ふところ》へ入れた。
 青年は筆記者が自分の説を聴いて、感心の余り少しは賛辞でも呈するかと思ったが、相手は例のごとく泰然としてただいいえと云ったのみである。
「いやこれは御邪魔をしました」と客は立ちかける。
「まあいいでしょう」と中野君はとめた。せめて自分
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