の説を少々でも批評して行って貰いたいのである。それでなくても、せんだって日比谷で聞いた高柳君の事をちょっと好奇心から、あたって見たいのである。一言《いちごん》にして云えば中野君はひまなのである。
「いえ、せっかくですが少々急ぎますから」と客はもう椅子《いす》を離れて、一歩テーブルを退《しりぞ》いた。いかにひまな中野君も「それでは」とついに降参して御辞儀《おじぎ》をする。玄関まで送って出た時思い切って
「あなたは、もしや高柳周作《たかやなぎしゅうさく》と云う男を御存じじゃないですか」と念晴《ねんば》らしのため聞いて見る。
「高柳? どうも知らんようです」と沓脱《くつぬぎ》から片足をタタキへおろして、高い背を半分後ろへ捩《ね》じ向けた。
「ことし大学を卒業した……」
「それじゃ知らん訳だ」と両足ともタタキの上へ運んだ。
 中野君はまだ何か云おうとした時、敷石をがらがらと車の軋《きし》る音がして梶棒《かじぼう》は硝子《ガラス》の扉《とびら》の前にとまった。道也先生が扉を開く途端《とたん》に車上の人はひらり厚い雪駄《せった》を御影《みかげ》の上に落した。五色の雲がわが眼を掠《かす》めて過ぎた心持ちで往来へ出る。
 時計はもう四時過ぎである。深い碧《みど》りの上へ薄いセピヤを流した空のなかに、はっきりせぬ鳶《とび》が一羽舞っている。雁《かり》はまだ渡って来ぬ。向《むこう》から袴《はかま》の股立《ももだ》ちを取った小供が唱歌を謡《うた》いながら愉快そうにあるいて来た。肩に担《かつ》いだ笹《ささ》の枝には草の穂で作った梟《ふくろう》が踊りながらぶら下がって行く。おおかた雑子《ぞうし》ヶ谷《や》へでも行ったのだろう。軒の深い菓物屋《くだものや》の奥の方に柿ばかりがあかるく見える。夕暮に近づくと何となくうそ寒い。
 薬王寺前《やくおうじまえ》に来たのは、帽子の庇《ひさし》の下から往来《ゆきき》の人の顔がしかと見分けのつかぬ頃である。三十三|所《じょ》と彫《ほ》ってある石標《せきひょう》を右に見て、紺屋《こんや》の横町を半丁ほど西へ這入《はい》るとわが家《や》の門口《かどぐち》へ出る、家《いえ》のなかは暗い。
「おや御帰り」と細君が台所で云う。台所も玄関も大した相違のないほど小さな家である。
「下女はどっかへ行ったのか」と二畳の玄関から、六畳の座敷へ通る。
「ちょっと、柳町まで使に行き
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