れ訪問する訳になりましたので――そこで実はちょっと往って来てくれと頼まれて来たのですが、御差支《おさしつかえ》がなければ、御話を筆記して参りたいと思います」
 道也先生は静かに懐《ふところ》から手帳と鉛筆を取り出した。取り出しはしたものの別に筆記したい様子もなければ強《し》いて話させたい景色《けしき》も見えない。彼はかかる愚《ぐ》な問題を、かかる青年の口から解決して貰いたいとは考えていない。
「なるほど」と青年は、耀《かが》やく眼を挙《あ》げて、道也先生を見たが、先生は宵越《よいごし》の麦酒《ビール》のごとく気の抜けた顔をしているので、今度は「さよう」と長く引っ張って下を向いてしまった。
「どうでしょう、何か御説はありますまいか」と催促を義理ずくめにする。ありませんと云ったら、すぐ帰る気かも知れない。
「そうですね。あったって、僕のようなものの云う事は雑誌へ載《の》せる価値はありませんよ」
「いえ結構です」
「全体どこから、聞いていらしったんです。あまり突然じゃ纏《まとま》った話の出来るはずがないですから」
「御名前は社主が折々雑誌の上で拝見するそうで」
「いえ、どうしまして」と中野君は横を向いた。
「何でもよいですから、少し御話し下さい」
「そうですね」と青年は窓の外を見て躊躇《ちゅうちょ》している。
「せっかく来たものですから」
「じゃ何か話しましょう」
「はあ、どうぞ」と道也先生鉛筆を取り上げた。
「いったい煩悶と云う言葉は近頃だいぶはやるようだが、大抵は当座のもので、いわゆる三日坊主《みっかぼうず》のものが多い。そんな種類の煩悶は世の中が始まってから、世の中がなくなるまで続くので、ちっとも問題にはならないでしょう」
「ふん」と道也先生は下を向いたなり、鉛筆を動かしている。紙の上を滑《すべ》らす音が耳立って聞える。
「しかし多くの青年が一度は必ず陥《おちい》る、また必ず陥るべく自然から要求せられている深刻な煩悶が一つある。……」
 鉛筆の音がする。
「それは何だと云うと――恋である……」
 道也先生はぴたりと筆記をやめて、妙な顔をして、相手を見た。中野君は、今さら気がついたようにちょっとしょげ返ったが、すぐ気を取り直して、あとをつづけた。
「ただ恋と云うと妙に御聞きになるかも知れない。また近頃はあまり恋愛呼ばりをするのを人が遠慮するようであるが、この種の煩悶《
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