うな気持のするものが書きたい。うまく感じが出ればいいが。まあ出来たら読んでくれたまえ」
「妙花園なんざ、そんな参考にゃならないよ。それよりかうちへ帰ってホルマン・ハントの画《え》でも見る方がいい。ああ、僕も書きたい事があるんだがな。どうしても時がない」
「君は全体自然がきらいだから、いけない」
「自然なんて、どうでもいいじゃないか。この痛切な二十世紀にそんな気楽な事が云っていられるものか。僕のは書けば、そんな夢見たようなものじゃないんだからな。奇麗《きれい》でなくっても、痛くっても、苦しくっても、僕の内面の消息にどこか、触れていればそれで満足するんだ。詩的でも詩的でなくっても、そんな事は構わない。たとい飛び立つほど痛くっても、自分で自分の身体《からだ》を切って見て、なるほど痛いなと云うところを充分書いて、人に知らせてやりたい。呑気《のんき》なものや気楽なものはとうてい夢にも想像し得られぬ奥の方にこんな事実がある、人間の本体はここにあるのを知らないかと、世の道楽ものに教えて、おやそうか、おれは、まさか、こんなものとは思っていなかったが、云われて見るとなるほど一言《いちごん》もない、恐れ入ったと頭を下げさせるのが僕の願なんだ。君とはだいぶ方角が違う」
「しかしそんな文学は何だか心持ちがわるい。――そりゃ御随意だが、どうだい妙花園《みょうかえん》に行く気はないかい」
「妙花園へ行くひまがあれば一|頁《ページ》でも僕の主張をかくがなあ。何だか考えると身体がむずむずするようだ。実際こんなに呑気《のんき》にして、生焼《なまやき》のビステッキなどを食っちゃいられないんだ」
「ハハハハまたあせる。いいじゃないか、さっきの商人見たような連中《れんじゅう》もいるんだから」
「あんなのがいるから、こっちはなお仕事がしたくなる。せめて、あの連中の十|分《ぶ》一の金と時があれば、書いて見せるがな」
「じゃ、どうしても妙花園は不賛成かね」
「遅くなるもの。君は冬服を着ているが、僕はいまだに夏服だから帰りに寒くなって風でも引くといけない」
「ハハハハ妙な逃げ路を発見したね。もう冬服の時節だあね。着換えればいい事を。君は万事|無精《ぶしょう》だよ」
「無精で着換えないんじゃない。ないから着換えないんだ。この夏服だって、まだ一文も払っていやしない」
「そうなのか」と中野君は気の毒な顔をした。
 午飯
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