たものは誰もあるまい」
「気楽だね」
「実に気楽さ。知ってるのは僕らを煽動《せんどう》した教師ばかりだろう。何でも生意気《なまいき》だからやれって云うのさ」
「ひどい奴だな。そんな奴が教師にいるかい」
「いるとも。相手が子供だから、どうでも云う事を聞くからかも知れないが、いるよ」
「それで道也先生どうしたい」
「辞職しちまった」
「可哀想《かわいそう》に」
「実に気の毒な事をしたもんだ。定めし転任先をさがす間|活計《かっけい》に困ったろうと思ってね。今度逢ったら大《おおい》に謝罪の意を表するつもりだ」
「今どこにいるんだい」
「どこにいるか知らない」
「じゃいつ逢うか知れないじゃないか」
「しかしいつ逢うかわからない。ことによると教師の口がなくって死んでしまったかも知れないね。――何でも先生辞職する前に教場へ出て来て云った事がある」
「何て」
「諸君、吾々は教師のために生きべきものではない。道のために生きべきものである。道は尊《たっと》いものである。この理窟《りくつ》がわからないうちは、まだ一人前になったのではない。諸君も精出してわかるようにおなり」
「へえ」
「僕らは不相変《あいかわらず》教場内でワーっと笑ったあね。生意気だ、生意気だって笑ったあね。――どっちが生意気か分りゃしない」
「随分田舎の学校などにゃ妙な事があるものだね」
「なに東京だって、あるんだよ。学校ばかりじゃない。世の中はみんなこれなんだ。つまらない」
「時にだいぶ長話しをした。どうだ君。これから品川の妙花園《みょうかえん》まで行かないか」
「何しに」
「花を見にさ」
「これから帰って地理教授法を訳さなくっちゃならない」
「一日《いちんち》ぐらい遊んだってよかろう。ああ云う美くしい所へ行くと、好い心持ちになって、翻訳もはかが行くぜ」
「そうかな。君は遊びに行くのかい」
「遊《あそび》かたがたさ。あすこへ行って、ちょっと写生して来て、材料にしようと思ってるんだがね」
「何の材料に」
「出来たら見せるよ。小説をかいているんだ。そのうちの一章に女が花園《はなぞの》のなかに立って、小さな赤い花を余念《よねん》なく見詰《みつ》めていると、その赤い花がだんだん薄くなってしまいに真白になってしまうと云うところを書いて見たいと思うんだがね」
「空想小説かい」
「空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいよ
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