に対する責任の一分《いちぶ》が済むようになるのさ」
「じゃ、金を貰おう。貰いっ放しに死んでしまうかも知れないが――いいや、まあ、死ぬまで書いて見よう――死ぬまで書いたら書けない事もなかろう」
「死ぬまでかいちゃ大変だ。暖かい相州辺《そうしゅうへん》へ行って気を楽《らく》にして、時々一頁二頁ずつ書く――僕の条件に期限はないんだぜ、君」
「うん、よしきっと書いて持って行く。君の金を使って茫然《ぼうぜん》としていちゃ済まない」
「そんな済むの済まないのと考えてちゃいけない」
「うん、よし分った。ともかくも転地しよう。明日《あした》から行こう」
「だいぶ早いな。早い方がいいだろう。いくら早くっても構わない。用意はちゃんと出来てるんだから」と懐中から七子《ななこ》の三折《みつお》れの紙入を出して、中から一束の紙幣《しへい》をつかみ出す。
「ここに百円ある。あとはまた送る。これだけあったら当分はいいだろう」
「そんなにいるものか」
「なにこれだけ持って行くがいい。実はこれは妻《さい》の発議《ほつぎ》だよ。妻の好意だと思って持って行ってくれたまえ」
「それじゃ、百円だけ持って行くか」
「持って行くがいいとも。せっかく包んで来たんだから」
「じゃ、置いて行ってくれたまえ」
「そこでと、じゃ明日《あす》立つね。場所か? 場所はどこでもいいさ。君の気の向いた所がよかろう。向《むこう》へ着いてからちょっと手紙を出してくれればいいよ。――護送するほどの大病人でもないから僕は停車場へも行かないよ。――ほかに用はなかったかな。――なに少し急ぐんだ。実は今日は妻を連れて親類へ行く約束があるんで、待ってるから、僕は失敬しなくっちゃならない」
「そうか、もう帰るか。それじゃ奥さんによろしく」
中野君は欣然《きんぜん》として帰って行く。高柳君は立って、着物を着換えた。
百円の金は聞いた事がある。が見たのはこれが始めてである。使うのはもちろんの事始めてである。かねてから自分を代表するほどの作物《さくぶつ》を何か書いて見たいと思うていた。生活難の合間《あいま》合間に一頁二頁と筆を執《と》った事はあるが、興《きょう》が催《もよお》すと、すぐやめねばならぬほど、饑《うえ》は寒《さむさ》は容赦なくわれを追うてくる。この容子《ようす》では当分仕事らしい仕事は出来そうもない。ただ地理学教授法を訳して露命を繋《つ
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