たたく。手をたたくのは必ずしも喝采の意と解すべからざる場合がある。独《ひと》り高柳君のみは粛然《しゅくぜん》として襟《えり》を正した。
「自己は過去と未来の連鎖《れんさ》である」
 道也先生の冒頭は突如として来た。聴衆はちょっと不意撃《ふいうち》を食った。こんな演説の始め方はない。
「過去を未来に送り込むものを旧派と云い、未来を過去より救うものを新派と云うのであります」
 聴衆はいよいよ惑《まど》った。三百の聴衆のうちには、道也先生をひやかす目的をもって入場しているものがある。彼らに一|寸《すん》の隙《すき》でも与えれば道也先生は壇上に嘲殺《ちょうさつ》されねばならぬ。角力《すもう》は呼吸《こきゅう》である。呼吸を計らんでひやかせばかえって自分が放《ほう》り出されるばかりである。彼らは蛇のごとく鎌首《かまくび》を持ち上げて待構えている。道也先生の眼中には道の一字がある。
「自己のうちに過去なしと云うものは、われに父母《ふぼ》なしと云うがごとく、自己のうちに未来なしと云うものは、われに子を生む能力なしというと一般である。わが立脚地はここにおいて明瞭《めいりょう》である。われは父母《ふぼ》のために存在するか、われは子のために存在するか、あるいはわれそのものを樹立せんがために存在するか、吾人《ごじん》生存の意義はこの三者の一を離るる事が出来んのである」
 聴衆は依然として、だまっている。あるいは煙《けむ》に捲《ま》かれたのかも知れない。高柳君はなるほどと聴いている。
「文芸復興は大《だい》なる意味において父母のために存在したる大時期である。十八世紀末のゴシック復活もまた大なる意味において父母のために存在したる小時期である。同時にスコット一派の浪漫派《ろうまんは》を生まんがために存在した時期である。すなわち子孫のために存在したる時期である。自己を樹立せんがために存在したる時期の好例はエリザベス朝の文学である。個人について云えばイブセンである。メレジスである。ニイチェである。ブラウニングである。耶蘇教徒《ヤソきょうと》は基督《キリスト》のために存在している。基督は古《いにし》えの人である。だから耶蘇教徒は父のために存在している。儒者《じゅしゃ》は孔子《こうし》のために生きている。孔子も昔《いにし》えの人である。だから儒者は父のために生きている。……」
「もうわかった」と叫ぶも
前へ 次へ
全111ページ中93ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング